最近は、なぜか下火になった感がありますが、ロボットと人との間の《戦闘》は、これまで様々な小説や映画で描かれて来ました。
しかし、機械と人との間に発生する脅威は、必ずしも戦闘だけとは限りません。そして、そんな一歩掘り下げた認識が、今この時の《営業活動》の捉え方に、大きく影響するかも知れないのです。

1.機械と人との間にある現実的な脅威とは?

一時、SF映画の中でロボットと人間が戦争をする物語が人気を呼んだことがありました。物語の中では、隠れた人間を見つけ出す生命検知システムや高度な武器を擁するロボットは、逃げ惑う人間にとって、大きな脅威以外の何ものでもありませんでした。
しかも、それが最近の《ドローン戦争》で現実化し始めたと言う人もいるようです。しかし、機械VS人間の間にある《脅威》は、もう少し違った部分にあるようにも思えるのです。

2.デジタル化された生活にあらわれる不都合

デジタル化された住宅では、夜中に突然《ピピーッ、ピピッー》という警報音が鳴り出すことがあります。何事かと驚いて、その音源を探してみると、全館空調機のリモコンの音だったりするのです。全館空調機が、各部屋にある《空気取り込み口のフィルターの汚れ》を知らしているわけです。
フィルターの掃除は済ませたばかりのはずです。しかし、その告知システムは、まだそんなに賢くはなさそうで、2週間に1回、定期的に警報を鳴らすというものでしかありません。エアコンなら警報解除で済みますが、これがガス給湯器の一酸化炭素検知になると、給湯器はそのまま動かなくなるのです。

3.機械が止まると生活が成り立たなくなる!

給湯器が止まると、修理されるまで《お湯》が出ません。風呂にも入れません。《人》は、メンテナンス業者にメールや電話を入れ、場合によっては、仕事を抜け出して給湯器修理に立ち会わなければならなくなるのです。
もちろん、エアコンフィルターのように、単に警報解除で済むものでも、機械に夜中に起こされ《解除手段》を取らされるわけです。そんな風に《意識》し始めると、家の中には《ピピーッ、ピピッー》と警告音を鳴らす《上から目線》の機器が、何と多いことでしょう。

4.もし機械の警告音が偉そうな言葉だったら

その警告音が《ピピーッ、ピピッー》ではなく、『おい人間、異常が出た。対処せよ』という言葉だったら、そこで一気に《機器と人間の関係性》が明瞭になります。つまり、《人》が《機器》に命令されて労働を強いられているという現実を感じ始めるということです。
一旦、そんな感覚に陥ると、パソコンやスマホの操作時に《ピー》と鳴って《誤操作》を警告する音まで、『おい人間、また誤操作している。しっかり正当な操作をせよ』という《声》に聞こえ始めるのです。
『まあ、いいか』と自分をなだめても、その時、洗濯機が『お~い人間、洗濯が終わったぞ。早く取り出せ!』と言いたげにピピーッ、ピピッーと声を上げます。

5.機械が人を使っているかのような日常生活

便利に感じる機械化は、裏を返せば《機械の命令で人が働かされる》生活なのかも知れません。ただ、生活なら、お湯を沸かしたり空調してくれたり、あるいは洗濯をしてくれたりするという恩恵があるわけですから、警告音で《命令》されても、『はい、ありがとう』と言えるでしょう。
ところが、これが保険営業で、営業指示を出すのがAI(人工知能)だったらどうでしょう。もちろん、当初は『ありがとう。営業チャンスを教えてくれて』と感謝ができるかも知れません。しかし、だんだん『機械に使われている私』という感覚に陥らないでしょうか。
そして、そんな気分に陥った時、『手数料(または報酬)さえ入れば満足だ』と言えるでしょうか。それが、機械VS人間の間にある《現代的かつ精神的な脅威》だと言えそうなのです。

6.肉体的本能と精神的本能を両方満足させる

機械はもちろん、契約可能性を探さないまま、ただ『成果を挙げろ』と命じるだけの《人》よりはマシかも知れません。しかし《フットワーク》を売りにする営業活動では、今後《機械の下につく》可能性もないとは言えません。それは《人の下につく》よりも、不本意かも知れないのです。なぜなのでしょう。
それは私たちが、食べたい、飲みたい、いい思いをしたいという《肉体的本能》ばかりではなく、自分で考えたい、知的でありたい、もっと人として成長したいという《精神的本能》をも持っているからです。

7.人の命令は内容が不適切でも問題は小さい

《人》は大いに不完全ですから、厳しい命令を受けても、その命令の下で、自分で工夫する余地はたくさんあります。命令自体が間違っていることもあり、いちいちその妥当性を判断しなければなりません。《人》からの命令は、実のところ《精神的本能》を、かなりの部分満たしてくれるのです。
ところが、それが機械の命令で、その成果を機械自体が評価するとしたら、いったいどうなるでしょう。そんな風に捉えると、《AI幻想》に酔う社会の脅威を感じないではいられません。

8.機械に使われるか機械を使うかの分かれ道

だから、『AI化を阻止しろ』として、ピピーッ、ピピッーと叫んでいるわけではありません。『AIを主人にしてはいけない、部下にせよ』と言っているわけです。データを分析して新たな可能性を見出すプログラムを部下に持つなら、鬼に金棒になり得るからです。
そして、そのためには、プログラム知識があってもなくても、《プログラムの作り手サイドに立つ必要がある》と言えるのです。もちろん、プログラミングができれば、それに越したことはないでしょうが、そのプログラミングのための《データ》を提供するだけでも、《人》の立場は変わります。
大きな組織ではデータ提供者になれなくても、自分流のAIを独自に作るシステム環境は、急速に整いつつあります。近未来には、たとえばエクセルを使いこなす時のように自分流AIが作れるようになるかも知れません。

9.今だからこそ《自分で考える営業》が重要

保険営業に限ったことではありませんが、近未来を展望すると、営業活動では、単に《成果》を出すことではなく、成果が出る道筋を《分析的に把握》することの方が重要だと言いたくなって来ます。しかも、たとえ成果が出なくても、その要因を分析できるだけで《未来》が変わり得るのです。
逆に、一旦は完成したと思われるAIにも、新たなデータを加えれば、それまでとは違った答を出すというシステムの修正が実感できるようなれば、AIの部下化が始まったとも言えそうなのです。
そんな認識の内にあるか外にあるかは、《人》にとって、どうでもいいことではないはずなのです。このKIZUKIサイトで、《考える営業》の重要性を指摘し続けているのは、理由のないことではありません。