新日本保険新聞生保版連載記事(2025年5月)
(執筆:森 克宣 株式会社エフ・ビー・サイブ研究所)
前回、顧客リストあるいは記憶の中にある既契約者や保険の検討者を、営業者の皆様が“人間分析”した想定存在こそが“第三者話法”の語り部になると申し上げた。では、その際の“人間分析”は、どのように行うのだろうか。
人間分析で気を付けること
“他者”分析を行う際に、特に気を付けておくべきことがある。それは『他者が見ている“黄色”は、自分が見ている色と同じかどうかは分からない』という類の現実だ。『否、誰にとっても黄色は黄色だ』と言い張ることはできるが、残念ながら証明のしようがない。人間分析は、この“現実”からスタートしなければならないのだ。
では、そもそも“人間分析”は不可能なのだろうか。
分析は推察から組み立てる
“証明”ができる程の分析は不可能だろうが、他者が見ている“黄色”を特定できなくても、『黄色を見て“私と同じように感じる”時が他者にもある』とは思える。
『それでは“分析”にならない』と言われるだろうが、むしろ、そんな隔靴掻痒を繰り返しながら“1つの例解”に至るのが人間分析の本姿ではないだろうか。
イメージならば共有が可能
そして、その例解自体を“身勝手な主観”に留めず、可能な限り“他者”を理解できる程に磨き上げようと努力してみる。すると確かに、スイスの心理学者のカール・G・ユングが唱えたような“心の原型”の片鱗を感じ始めることがある。
私たちは他者を完全に理解することはできないが、“イメージを共有する”程度には理解し合えるはずなのだ。“同じ黄色を見ている”ことは証明できなくても、『同じ何かが放つ色を見て活発な明るさを感じ取るところは同じだ』と思えると言うことだ。
人間分析に立ちはだかる壁
ややこしい話をしてしまったが、このややこしさを無視して“人間分析”をしてしまうと、表面的な観察で“他者の思いや精神”を決め付けてしまいやすくなる。
しかし深層心理や原型について理解していなくても、“共感できるイメージ”を探す意欲を失わなければ、徐々に“心が通じ合う部分”を見つけ出すこともできそうなのだ。
その“共感”の逆が“批判”や“評価”で、私たちが“事例の素材を得る”時に批判や評価が混じると、その他者のことを理解できなくなると申し上げておきたい。
たとえば『この客は面倒臭い』と評価した瞬間に、人間分析は壁に阻まれるということだ。それは他者観察ではなく、自分の価値観を他者にあてがう行為に過ぎないからだ。
Aさんをプロファイルする
さて、保険契約を獲得した同僚に、契約者のAさんのことを聞いてみたとしよう。ところが、Aさんは“磯釣り好き”という以上の情報は得られなかった。そこで、磯釣りが好きな第三者(Bさん)を探して観察対象にしてみる。
Bさんは、朝暗いうちから車を飛ばして“磯”に出掛けるらしい。その他の情報も得た。ただ、そもそも磯釣りをイメージできないなら、YouTubeで調べてみよう。すると、一つの映像から“ぞっ”とするような危険な場面が見つかることがある。
『磯釣りって、結構危ないんだ』と、Aさんを演じる“私”に戻って感じてみる。
Aさんの詳細データを確認
データに戻ると、Aさんの妻は保険契約時には32歳。子供は2人とも小学生だ。きっと家族は、休みの日にパパが朝早くから磯釣りに出掛けるのを、快く思っていなかっただろう。子供は特に、遊びに連れて行って欲しい盛りだ。
Aさんもきっと、そんな妻子の思いを“振り切る”ようにして磯に出ていたに違いない。心が痛い。しかし釣りはしたい。どうしよう。何かでこの心の矛盾の均衡をとりたいものだ。Aさんの良い面を見る“私”には、そんなAさんの葛藤が分かる。
一瞬の“ひらめき”が来る
すると、直ぐにではなくとも“ひらめき”が生じることがある。そして『あっ、それで定期保険を選んだのか』と思う。晩年になってまで危険な磯釣りをしようとは、Aさんは思っていない。そして、それまでの間『もしもの時には、家族が死亡保険金を受け取れる』ことが、自分の趣味を選ぶ“免罪符”のような働きをしてくれる。
それは釣りも家族も“どちらも大事にする”という自分なりの均衡点なのだ。本当にAさんが“そう”思ったかどうかは不明だが、逆に“そう”思っても不思議はない。
ひらめき内容の検証も重要
保険営業の同僚に確かめると、Aさんは終身保険には興味を示さなかったようだ。磯釣りを卒業したら、“心の均衡”は必要なくなるからだろう。子供も大きくなる。
もちろん、それはAさんが見た“黄色”そのものとは違うだろう。しかし、“私の中のAさん”は、批判や評価を控えて共感点を探し続けたら、そんな“保険契約動機”を語ってくれた。そして、その時“事例の素材”が出来上がる。
新たなトークが生まれる時
自分は磯釣りどころか、危険な趣味を持たないから考えてもみなかったが、少ない情報からAさんの内面を推察しているうちに、一つの《物語》が生まれた。
この“私の中のAさん”は、危険な趣味を持つ他者にも“保険が持つ精神的な均衡力”を語ってくれるに違ない。それは“私”にとって新しいトークの切り口になる。
それは分析ではなく想像?
『それは分析ではなく想像だ』と感じるかも知れない。しかし心の中は誰にも見えないのだから、推察する以外に“知る”術ははい。それにもかかわらず、私たちは《自分が実際に心を持っている》ことを疑えない。内面とは“そんなもの”だろう。
心理アンケートや行動観察も、その人の反応や行為から内面を“推察”するためのものに違いない。
自分の心に他者の心を映す
つまり、他者の内面は分からない。しかし、その他者が『“自分が持つ良い面”と共通の心を持つならどうするだろう』と考え続けると、生き生きとした事例の素が生まれる。逆に、自分が持つ悪い心を他者に投影すると、犯人を追い詰める刑事になれる。
“人”は決して表面的には生きていないし、心は直接的にデータ化できるものでもない。ただ他者の心は、自分の心が持つ“鏡”に映して初めて感じ取れるものだと申し上げたいわけだ。さて、次回以降、第三者話法の本筋に戻って行こう。