新日本保険新聞生保版連載記事(2025年4月)
(執筆:森 克宣 株式会社エフ・ビー・サイブ研究所)
『これは、私ではなく誰かが言っていたことだが…』という話し方は、そもそも無責任だろう。『確かに、そうだ』と同調したくなるが、実は、こんな第三者話法が無責任に見えてしまうところに、私たちの深刻な問題があるとも言えるのだ。
自分の意見を持ちたがるのは人情
私たちは誰でも“自分の意見”を持っているし、持ちたがる。今や子供でも、自分の意見を主張する。それは、とても良いことだし、本来私たちは“徹底的に自分の意見”に立脚して生きるべきだとも思える。
しかし、それでは身近な人や組織や社会と、なかなかうまく折り合いを付けられない。自分の意見で生きたくても、妥協しなければならないケースの方が多いからだ。
組織や社会で生きるための妥協点
その際の“妥協”とは、自分以外の“見解”に従うことだ。自意識にとって、それは一種の屈辱だろう。だから私たちの心は自然に、その屈辱を和らげる方法を考える。
そして、まずは『その意見を誰が発したか』で、受け入れるかどうかを検討する。部の中で《部長》が発した見解なら、むしろ従った方が良いはずだ。逆に、部長の見解が《役員陣》の考えに反するなら、部長に従うのは危険かも知れない。
誰の見解なのかを確認したくなる
そんな“力関係”の中で生きている私たちは、他者の“考え方”を聞いた時、それが“誰の見解”なのかを、真っ先に確認しようとしてしまう。そして、その発信者が取るに足りない人なら、『ああ、そんな人の見解か』と、安心して無視をする。
つまり、意見や見解の内容よりも『誰が言ったのか』が重視されてしまうわけだ。では、なぜ“その姿勢”が“深刻な問題”だと言えるのだろうか。
自分では考えなくなることが問題
それは、心に響く真実であれ、感覚が捉える表面的事実であれ、それが真実や事実であるなら、『誰が言ったか』は問題ではないはずだからだ。たとえば、子供が『三角形の内角の和は180度だ』と言った時、『子供の言うことではないか』として否定や無視をしてしまうなら、その人の“知的生活”は危機的な状況に陥るだろう。
子供ならまだしも、『嫌いな人や信用できない人の言うことには同調しない』と決め込むと、反動的に好きな人や信用できる人の考えに依存して、自分では何も考えなくなってしまう。そんな人が集まって“派閥”が出来上がる。
心の底から湧き上がる知性の泉?
もちろん、組織や社会の運営には“派閥”も不可欠ではあるが、忘れてはならないことがある。それは『今、そこにある話の内容は、この私にとって、真実や事実なのだろうか』という私たちの“心の底から湧き上がる純知性的な問い”だろう。
ただ、ここで哲学的な話がしたいわけではない。目的は“保険の話”だ。
保険の話は“誰”がしているのか
さて、“保険の話”は誰がするのだろう。そこで語られる“お勧め”は、誰の意見だろうか。保険の買い手にとっては、それは当然“保険営業者の意見”であり、“保険会社の見解”に他ならない。
保険営業者や保険会社は、新規の顧客にとって、“自分の意見を曲げてまで従うべき存在”だろうか。否、むしろ自社または営業者にとって有利な保険契約に誘う“信用ならない相手”に見えているかも知れない。
保険の話に始めから否定的な態度
以上のような明確な意識を持っていない顧客層でも、『保険の話は聞かない』と言うなら、心の底では“類似的な心境”にあるのだろう。そして、その心境がもたらす問題は、顧客層が“保険の話を聞く前に否定的な判断をしてしまう”ということなのだ。
それは“思い込み”であり“先入観”の典型だろう。保険の話も、本来は内容を聞いてから、自分の知性と感性で、肯定か否定かを判断すべきことだからだ。
生命保険の“内容”を伝える方法
つまり、“誰の意見か”で、受け入れるべきかどうかを決める習慣を、いつの間にか持ってしまいがちな私たちには、何か新しい決断に際しては、『誰の意見かはさておいて、その内容を吟味しましょう』という姿勢で対処することが必要になるわけだ。
それでも感性や思考の習慣は、簡単には変えられないから、《誰の意見なのかが分かりにくい》スタイルの話し方を心掛けてみる。それが“第三者話法”の根を形成する。
話し手は無責任ではいられない!
第三者の話だとしても、それを話した責任は《話し手》にある。そのため、第三者話法は“無責任”を好んでいるわけではない。同様に、『かの有名人がこう言っていました』というインフルエンサー的話法にも与しない。
それはインフルエンサー的話法では、ファッションや化粧品なら売れても、生命保険の販売促進にはなりそうにないからだ。生命保険は、自分や家族の“生き様”自体から発想しなければ、マイホーム同様、買い手にとっての価値は分からないだろう。
聞き手を話題の内容に集中させる
だから第三者話法では、深くであれ浅くであれ“顧客に考えてもらう”ために、余計な枝葉を取って、“話の内容”に集中してもらうことを狙う。
しかし、ここで言う“第三者”とは誰なのだろう。しかも、その第三者がインフルエンサー的な有名人ではないとしたら、話の内容に“存在感”があるのだろうか。
いったい第三者とは誰なのか?
詳細は次回のテーマとするが、第三者話法の第三者は“生命保険の既契約者”あるいは“契約に至らないまでも検討した顧客層”だ。ただし、既契約者や見込み先リストの記載内容自体には留まらない。そもそも、どんなデータベースにも“人間分析”は乏しいのが普通だろうから、記載内容は“意見”を語ってくれていないだろう。
語ってくれていない方が良い。“個人情報”上の問題があって使えないからだ。では、どうするのか。簡潔に言うなら、そのリストや記憶の中にある既契約者や検討者を、営業者の皆様が“人間分析”した想定存在こそが第三者なのだ。詳しくは次回に…。